#逃げる男「A」

2007年08月02日
逃げる男「A」
その男Aは喫煙室に逃げ込んだ。自席に5分と座って居ない。余所見ばかり。キャビネに行ってファイルを確認し席に戻る。お茶を取りに行く、紙コップを捨てに行く、コーヒーを買いに行く、紙コップを捨てに行く、キャビネに行く、メールを見る、席を立って辺りを見渡す、タバコを吸いにタバコルームへ行く、暫く戻って来ない。静かになる。短くて10分。長いと30分。やがて全身タバコ臭い傍迷惑が戻って来る。キャビネに行く、席に戻る、お茶を取りに行く、辺りを見渡す、紙コップを捨てに行く、腕組みをして何もしない、キャビネに行く、パソコンにログインする、キャビネに行く、タバコルームに行く、暫く戻って来ない。なんとこれを一日中繰り返している。仕事を頼もうとすると忙しいと言って断る。夕方5時の定時を過ぎても帰ろうとしない。8時近くまで立ったり座ったりタバコルームの喫煙を続けている。周囲を見渡すだけでなく相手構わずジッと注視する。男の人でもその視線だというから女の人は目を合わせないように顔を伏せて怯えている。男がタバコルームに行っている時だけ安堵が流れる。

男は母親と二人暮らしらしい。兄弟はいない。早くに父親を亡くしてからずっと二人暮らしらしい。男は何度か結婚の機会があったが一見の娘に母子に分け入ることは出来なかったようだ。男は母親思いの心優しいことが自慢だった。男が気遣う相手は母親だけになっていた。

時は男をいつしか初老に仕立てていた。既に五十を過ぎていても抜け毛も白髪も無縁な男は母親との生活に充実感を持っていた。母親が八十を越えた頃、身体が少しずつ変調に見舞われるようになった。それが癌と知るのは程無いことで、男の心は淡々とそれを受け入れた。事務引き継ぎ処理のように受け止め、手続きを始めた。お行儀の良い息子は更に行儀の良い男を努めるしかなかった。母親との絆を強く確認出来るのを男は喜びに感じた。母親の手術は上手く行ったがそれでも年齢を考えれば先の無いことは自明だった。

少年の心を持った男は五十の現実を突き付けられて、途方に暮れるのにそう時間は掛からなかった。母親のように自分を褒めてくれたり励ましてくれたりする存在は何処にも居ない。

恐ろしい真実。男はヘビースモーカーだった。精神的な安心をタバコを吸うことで得ることを覚え量は時と共に増えていった。我が儘いっぱいの男は母親に終始まとわりついていたがタバコを離すことは無く、母親も咎めなかった。咎めても無駄なことを知っていた。

母親は自分の肺機能が最早只ならない事に気付いていたが息子にそれを言うことは出来なかった。自分が元気な間はこの子は自立出来ないことを知っていた。

肺ガンを患っていることが漸く周りの知ることとなった。

母親は自分の発病に時間が掛かり過ぎたことを残念に思った。既に八十を過ぎ息子は五十を迎えていたのだから。

手術は上手く行ったが転移も始まっていた。母親は自分の気弱を、甘さを後悔していた。息子を可愛がり過ぎて駄目にしてしまったのだから。

病弱なまま母親は息子を叱るようになった。息子の驚いた顔を見てますます叱る自分を情けなく思った。

母親は早くに他界した伴侶を思い出すことが多くなった。

男は今や完全に行き場を失いつつある。自分を受け入れる場所が何処にも見いだせない。

男は母親の命を縮めたのが自分であることを理解出来なかった。

男は現実を受け入れること拒否するしかなかった。男にとっての現実回避は現実を持ち込む人とのコミュニケーションの回避だった。

常に動いていること。常に口をふさぐこと。常にバタバタしていること。男の知恵はそれくらいしか考え付かなかったのです。

男は席に座ると、誰か近付いて来ないか、電話が掛かって来ないか不安でしようがなかった。実際電話が掛かって来ても直ぐには電話に出ることは出来ない。電話はワイヤレスだから普通の喫煙者はワイヤレスを持ってタバコルームに入るが、男にとってそれは絶対に拒否しなければならない事なのだった。


男の無意味な立ったり座ったりの行動はますます激しくなり人と目を合わすことが出来なくなり、話し掛けられても返事も出来なくなった。

男の奇行は既に十年も続いていたが終焉がどのように訪れるかは誰にも分からなかった。

[ 投稿者:FFTE at 09:40 | フィクション | コメント(0) | トラックバック(0) | 編集/削除 ]

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